コロナに思う
ウイズ・コロナ、アフター・コロナ、いわゆる「コロナとの共生」をどう考えるかが目下大きな課題になっていますが、私には一つ気掛かりな点があります。
よく言われるのは感染対策と経済活動の両立、あるいは経済を回しながらどう感染拡大を抑え込んでいくか、という点です。別の言い方をすると、十分感染防止に注意を払いながら、慎重に一歩一歩、かつての日常生活を取り戻していこうという姿勢です。
一見何の問題もないように思えますが、私は本当にそれが可能なのだろうか、時折自問自答します。「元に戻す」「以前の姿に回復させる」という考え方には、どこかに勘違いがあるのではないか。もっと言えば、かなり危うい一面があるのではないか。欧米各国の動向を見ながら、最近はそういう思いを深くしています。
人類は、動物としては非常に変わった種族です。通常、生物は環境に合わせて自分の体を進化させ生き延びていますが、人間だけはもう何万年もほとんど肉体的な進化をしていません。自分を変えず、環境を変えてきたからです。衣服や家を作り、道具や機械を作り、乗り物を作り食糧の大量生産を行い、大規模な灌漑やダム工事、運河の掘削までやって、地球上に大繁殖しました。自分を変えず周囲を変えて、大成功を収めてきたのです。
その中で、人間と病原体との関係も、他の生物とは異なる様相を呈してきました。細菌やウィルスなどの病原体は長年、生物進化に重要な役割を果たしてきたと言われています。ある場合には疾病を通じて自然淘汰を行い、ある場合にはDNAの変化に直接関与してきました。古来、自然環境の中では、人間はまさに病原体と「共存」することによって進化を遂げてきたのです。
ところが文明の発達とともに共住環境や衛生環境が整備され、食生活も大幅に改善され、人類は病原体の脅威にさらされることが少なくなりました。さらにこの100年ほどの間に、抗菌薬の発見・開発により、ドラスティックな変化が起こりました。細菌学の発達や公衆衛生の普及とあいまって、先進国の平均寿命は大幅に延び、人類は悪い微生物さえ制圧すれば、自分達は変わらずにやってゆけるという自信をますます深めたようです。
(とはいえウイルスだけは、いまだに制圧できません。私見ですが、ひょっとすると生物と無生物の境界上にあるウイルスという存在は、人類にとって単なる厄介者ではなく、「共存すべき自然」の最後の象徴になるのかもしれません。)
話を元に戻しますと、生物が自然と共存して生きていくためには、絶えざる変化を自らに課す必要がある、それが一般法則です。人類は大脳が肥大したおかげで、たまたま自分を変えずに成功を収めましたが、この成功は生物の歴史から見れば極めて例外的で、かつ、かなりリスクの高い戦略とも言えます。生物としての進化も多様化もなおざりにしているからです。その点を十分自覚して、何らかの形で自らを変える努力、あるいは多様性を獲得する努力を続ける必要があるのではないでしょうか。
「自らを変える」ということは、必ずしも肉体構造や遺伝子配列の変化だけを意味するわけではありません。一般生物の進化はまさに細胞と遺伝子の問題ですが、人間の場合、むしろターゲットは体の外にあります。なぜなら、人間は身体を進化させる代わりに、身体能力や知的能力の外在化、つまり大脳から発出して身体の外側に築いてきたものを改良・進化させて、ここまでやってきたからです。衣服、道具と機械、住居、都市、すべてこの外在化の成果です。ハード面だけではありません。言葉、文字、書物、電子記号、通信システムなど、ソフト面の外在化も飛躍的に拡大してきました。脳内に収めきれないものを、どんどん外部に構築し拡大してきたのです。ここまで特異な発達を続けてきた以上、今さら後戻りはできません。人類はむしろこれまでの延長上に、新たな変化を探っていくしかないのです。
冒頭で触れたテーマ、「経済の回復」に戻って言うと、経済・社会システムというものは、いまや人間という種族の「身体」そのものといえます。衣服や道具、書物などは第二の身体、社会システムや制度などは第三の身体といえるでしょう。そして進化と自然淘汰の原則に従うと、そこをうまく変えていかない限り継続的な成功は望めない、いずれ非常に危険な事態に直面する可能性が高い、そう考えざるを得ないのです。
このように考えてくると、コロナとの共生を図るうえで、単なる経済の回復を図るとか以前の生活に戻すという考え方は、あまりに楽天的で短絡的、あるいは人間本位のご都合主義に過ぎないのではないかという気がします。単純に元には戻らない、いや戻せない、そういう局面に立たされているのだという認識が肝要です。COVID-19というリトマス試験紙は現代社会の様々な問題点を炙り出しましたが、それ以上にこれまでの経済や社会システムの在り方を見直す重要な契機を人類に与えてくれたのではないかと思います。少なくとも「量的拡大」をベースとした「持続的成長」という幻想から目覚める契機を──。
私は、今後の「回復」を考える際には、少なくとも次の三点を押さえておく必要があると思います。
一つ、単純な量的回復、10割回復は諦めること。(現実的に困難だし、仮に可能であっても、それでは根本的な問題は何も解決せず、将来的な文明のリスクは回避できないこと)
二つ、そのためにはある程度の社会的な負担や犠牲、場合によっては相当な痛みも覚悟する必要があること。(一時しのぎ的な補助金や給付金、財政的補填だけでなく、むしろ経済や社会の変容を促すような総合的なシステム改革が求められること)
三つ、それを実現するためには、社会全体の意識改革と新たな価値観の創出が何より大事であること。(そのためには、本来、メディアと政治家が率先して指導的役割を果たすべきだが、それが期待できない以上、国家・地域やセクターの垣根を超えて、問題意識を共有する者が共同作業できるような仕組み作りが急務であること)
量的経済の見直しとか新たな価値観というと、ずいぶん大風呂敷を広げたみたいですが、簡単な例で言うと、たとえば挨拶の仕方。欧米では握手やハグが普通でしたが、コロナ以降、距離を置いた身振り手振りに変わりました。それでも十分やっていけます。場合によっては、単なる握手よりも手話を交えた挨拶、あるいはダンスを取り入れた挨拶などのほうが豊かなコミュニケートが図れるかもしれません。これも一つの文化様式でしょう。文化様式は社会システムを支える重要な要素です。
もう一例。日本では最近、「Go Toトラベル・キャンペーン」が大きな問題になりました。まさに「量的回復」策の典型で、モノとヒトを動かしてかつての経済水準を取り戻そうという狙いです。感染防止対策との関係、実施タイミングの問題、一部地域除外の問題等々、様々な課題が指摘されていますが、私が感じるのはむしろそれ以前の話で、この絶好のチャンスをなぜ利用しなかったのか? という素朴な疑問です。絶好のチャンスというのは何かといえば、地域再生、地域文化の復興という観点です。
日本経済は長らく首都圏の一極集中が続き、地方の地盤沈下と中小都市のゴーストタウン化に歯止めがかからない状況です。その中でGo Toキャンペーンを実施する場合、全国的な観光業の回復という観点だけでなく、地域エリア内の人的交流の活発化、人的資源の活性化という観点も大切ではないでしょうか。そこに着目するなら、例えば「隣接県間の移動促進キャンペーン」という発想も当然生まれるはずです。県内または隣接県への旅行に限って、国か自治体が費用を一部サポートする。そうすれば首都圏からの流出(感染拡大)も抑えられ、一石二鳥です。何より、魅力的な地域文化を再構築するための一里塚になり得たかもしれない、そう思うと誠に残念です。
全国的なマス経済の回復という固定観念から視点を少しずらして、首都圏の人々が動きにくい現状を逆に利用する方策はないか、そう考えるところから地域重視の発想が生まれます。これはほんの一例ですが、小さなアイデアも数千、数万と寄せ集めれば、大きな改革のうねりを生み出せるかもしれません。リモートもⅤRも総動員して、新しいコミュニケートの在り方と付加価値を探ればいいのです。今こそ言葉の本当の意味で「リストラ」、つまり構造の再編、再構築が求められているような気がします。
最近、映画館の観客動員数で「千と千尋の神隠し」などのジブリ作品が上位を独占したと聞きました。このコロナ禍の下で、やはり人々は勇気と夢と思いやりを求めているのかなと改めて感じた次第です。将来を見据えた社会システムの改革も、「首切りリストラ」に象徴されるような効率重視型ではなく、勇気と夢、そして活力にあふれた永続的戦略であってほしいものです。