some works

4の字固め?

ごぶさたしました。散歩の途中、面白い木を見つけたので。

東京・恵比寿の防衛省の研究所、塀の向こう側に覗いている曲がりくねった松の木です。観賞用に人為的に曲げたものではないと思いますが、自然に出来たにしてはあまりに見事。下のほうに写っているのは、たぶん、スパイや侵入者撃退用のトゲトゲだと思います。

コロナに思う

 ウイズ・コロナ、アフター・コロナ、いわゆる「コロナとの共生」をどう考えるかが目下大きな課題になっていますが、私には一つ気掛かりな点があります。

 よく言われるのは感染対策と経済活動の両立、あるいは経済を回しながらどう感染拡大を抑え込んでいくか、という点です。別の言い方をすると、十分感染防止に注意を払いながら、慎重に一歩一歩、かつての日常生活を取り戻していこうという姿勢です。

 一見何の問題もないように思えますが、私は本当にそれが可能なのだろうか、時折自問自答します。「元に戻す」「以前の姿に回復させる」という考え方には、どこかに勘違いがあるのではないか。もっと言えば、かなり危うい一面があるのではないか。欧米各国の動向を見ながら、最近はそういう思いを深くしています。

 人類は、動物としては非常に変わった種族です。通常、生物は環境に合わせて自分の体を進化させ生き延びていますが、人間だけはもう何万年もほとんど肉体的な進化をしていません。自分を変えず、環境を変えてきたからです。衣服や家を作り、道具や機械を作り、乗り物を作り食糧の大量生産を行い、大規模な灌漑やダム工事、運河の掘削までやって、地球上に大繁殖しました。自分を変えず周囲を変えて、大成功を収めてきたのです。

 その中で、人間と病原体との関係も、他の生物とは異なる様相を呈してきました。細菌やウィルスなどの病原体は長年、生物進化に重要な役割を果たしてきたと言われています。ある場合には疾病を通じて自然淘汰を行い、ある場合にはDNAの変化に直接関与してきました。古来、自然環境の中では、人間はまさに病原体と「共存」することによって進化を遂げてきたのです。

 ところが文明の発達とともに共住環境や衛生環境が整備され、食生活も大幅に改善され、人類は病原体の脅威にさらされることが少なくなりました。さらにこの100年ほどの間に、抗菌薬の発見・開発により、ドラスティックな変化が起こりました。細菌学の発達や公衆衛生の普及とあいまって、先進国の平均寿命は大幅に延び、人類は悪い微生物さえ制圧すれば、自分達は変わらずにやってゆけるという自信をますます深めたようです。

(とはいえウイルスだけは、いまだに制圧できません。私見ですが、ひょっとすると生物と無生物の境界上にあるウイルスという存在は、人類にとって単なる厄介者ではなく、「共存すべき自然」の最後の象徴になるのかもしれません。)

 話を元に戻しますと、生物が自然と共存して生きていくためには、絶えざる変化を自らに課す必要がある、それが一般法則です。人類は大脳が肥大したおかげで、たまたま自分を変えずに成功を収めましたが、この成功は生物の歴史から見れば極めて例外的で、かつ、かなりリスクの高い戦略とも言えます。生物としての進化も多様化もなおざりにしているからです。その点を十分自覚して、何らかの形で自らを変える努力、あるいは多様性を獲得する努力を続ける必要があるのではないでしょうか。

 「自らを変える」ということは、必ずしも肉体構造や遺伝子配列の変化だけを意味するわけではありません。一般生物の進化はまさに細胞と遺伝子の問題ですが、人間の場合、むしろターゲットは体の外にあります。なぜなら、人間は身体を進化させる代わりに、身体能力や知的能力の外在化、つまり大脳から発出して身体の外側に築いてきたものを改良・進化させて、ここまでやってきたからです。衣服、道具と機械、住居、都市、すべてこの外在化の成果です。ハード面だけではありません。言葉、文字、書物、電子記号、通信システムなど、ソフト面の外在化も飛躍的に拡大してきました。脳内に収めきれないものを、どんどん外部に構築し拡大してきたのです。ここまで特異な発達を続けてきた以上、今さら後戻りはできません。人類はむしろこれまでの延長上に、新たな変化を探っていくしかないのです。

 冒頭で触れたテーマ、「経済の回復」に戻って言うと、経済・社会システムというものは、いまや人間という種族の「身体」そのものといえます。衣服や道具、書物などは第二の身体、社会システムや制度などは第三の身体といえるでしょう。そして進化と自然淘汰の原則に従うと、そこをうまく変えていかない限り継続的な成功は望めない、いずれ非常に危険な事態に直面する可能性が高い、そう考えざるを得ないのです。

このように考えてくると、コロナとの共生を図るうえで、単なる経済の回復を図るとか以前の生活に戻すという考え方は、あまりに楽天的で短絡的、あるいは人間本位のご都合主義に過ぎないのではないかという気がします。単純に元には戻らない、いや戻せない、そういう局面に立たされているのだという認識が肝要です。COVID-19というリトマス試験紙は現代社会の様々な問題点を炙り出しましたが、それ以上にこれまでの経済や社会システムの在り方を見直す重要な契機を人類に与えてくれたのではないかと思います。少なくとも「量的拡大」をベースとした「持続的成長」という幻想から目覚める契機を──。

 私は、今後の「回復」を考える際には、少なくとも次の三点を押さえておく必要があると思います。

 一つ、単純な量的回復、10割回復は諦めること。(現実的に困難だし、仮に可能であっても、それでは根本的な問題は何も解決せず、将来的な文明のリスクは回避できないこと)

 二つ、そのためにはある程度の社会的な負担や犠牲、場合によっては相当な痛みも覚悟する必要があること。(一時しのぎ的な補助金や給付金、財政的補填だけでなく、むしろ経済や社会の変容を促すような総合的なシステム改革が求められること)

 三つ、それを実現するためには、社会全体の意識改革と新たな価値観の創出が何より大事であること。(そのためには、本来、メディアと政治家が率先して指導的役割を果たすべきだが、それが期待できない以上、国家・地域やセクターの垣根を超えて、問題意識を共有する者が共同作業できるような仕組み作りが急務であること)

 量的経済の見直しとか新たな価値観というと、ずいぶん大風呂敷を広げたみたいですが、簡単な例で言うと、たとえば挨拶の仕方。欧米では握手やハグが普通でしたが、コロナ以降、距離を置いた身振り手振りに変わりました。それでも十分やっていけます。場合によっては、単なる握手よりも手話を交えた挨拶、あるいはダンスを取り入れた挨拶などのほうが豊かなコミュニケートが図れるかもしれません。これも一つの文化様式でしょう。文化様式は社会システムを支える重要な要素です。

 もう一例。日本では最近、「Go Toトラベル・キャンペーン」が大きな問題になりました。まさに「量的回復」策の典型で、モノとヒトを動かしてかつての経済水準を取り戻そうという狙いです。感染防止対策との関係、実施タイミングの問題、一部地域除外の問題等々、様々な課題が指摘されていますが、私が感じるのはむしろそれ以前の話で、この絶好のチャンスをなぜ利用しなかったのか? という素朴な疑問です。絶好のチャンスというのは何かといえば、地域再生、地域文化の復興という観点です。

 日本経済は長らく首都圏の一極集中が続き、地方の地盤沈下と中小都市のゴーストタウン化に歯止めがかからない状況です。その中でGo Toキャンペーンを実施する場合、全国的な観光業の回復という観点だけでなく、地域エリア内の人的交流の活発化、人的資源の活性化という観点も大切ではないでしょうか。そこに着目するなら、例えば「隣接県間の移動促進キャンペーン」という発想も当然生まれるはずです。県内または隣接県への旅行に限って、国か自治体が費用を一部サポートする。そうすれば首都圏からの流出(感染拡大)も抑えられ、一石二鳥です。何より、魅力的な地域文化を再構築するための一里塚になり得たかもしれない、そう思うと誠に残念です。

 全国的なマス経済の回復という固定観念から視点を少しずらして、首都圏の人々が動きにくい現状を逆に利用する方策はないか、そう考えるところから地域重視の発想が生まれます。これはほんの一例ですが、小さなアイデアも数千、数万と寄せ集めれば、大きな改革のうねりを生み出せるかもしれません。リモートもⅤRも総動員して、新しいコミュニケートの在り方と付加価値を探ればいいのです。今こそ言葉の本当の意味で「リストラ」、つまり構造の再編、再構築が求められているような気がします。

 最近、映画館の観客動員数で「千と千尋の神隠し」などのジブリ作品が上位を独占したと聞きました。このコロナ禍の下で、やはり人々は勇気と夢と思いやりを求めているのかなと改めて感じた次第です。将来を見据えた社会システムの改革も、「首切りリストラ」に象徴されるような効率重視型ではなく、勇気と夢、そして活力にあふれた永続的戦略であってほしいものです。

こんなところに

こんなところにハンゲショウ。ここは上野・不忍池のほとり。ボート乗り場の近くに、ハンゲショウが密生していました。


街中では滅多にお目にかかれない植物で、葉が白くなるのも普通は夏至のころ。5月中に都心部で目にするのは本当に珍しいことです。

この植物、ドクダミ科の多年性落葉草本です。七十二候の一つ「半夏生」(夏至から11日目)のころに葉の表面が白くなり「半化粧」したような姿になるので、「ハンゲショウ」という和名がつけられました。

水辺に育つのですが、生育に適した土地が少なくなってきたため、自生株は近年激減し、地域によっては絶滅が懸念されているそうです。大切に見守りたいですね。


追伸 下の写真は一週間後の様子。こんなに白くなっていました。まさに半化粧──。


ここはどこ? その2

しばらく出かけていたのでご無沙汰しました。

これは、鉄道ファンなら誰でも知っている場所ではないかと思いますが、散歩の道すがらよく通る所なので、一応アップしました。

東京メトロの後楽園駅を本郷三丁目側の高台(正確に言うと、通りの向かいにあるビルの駐車場)から眺めた景色です。左上の曲がったレールのようなものは、東京ドームシティのジェットコースター「サンダードルフィン」の一部。地下鉄と高架とビルの谷間とアトラクション施設が混然一体になった不思議な光景です。


ここはどこ?

こんな眺めのところがありました。スカイツリーから真っ直ぐ足元に電車が走ってきます。思わずシャッターを切りました。

ここは、東京の東池袋から大塚方面に向かう途中にある「にしすがもはし」という跨線橋。昭和34年に架設され老朽化が進んできたことから、近く建て替え工事が予定されているそうです。新しくなってもこの眺め、変わらないでほしいですね。

なんの足跡?

まず、下の写真をご覧ください。これ、いったい何の足跡?

先日、荒川の少し上流にある、埼玉県の自然観察公園で見つけたものです。大きさは4センチほど。哺乳類にしては指の筋肉や肉球が見当たらないし、一瞬トリかなと思ったけれど、指(爪)がしっかり5本ある。はてさて、何だろう? 足跡図鑑を見てもわからない。で、施設の係員に写真を見せたところ、彼は笑いながらしたり顔でうなずき、「ハイハイ、こちらへどうぞ」、一匹の動物の剥製の前に案内してくれました。

答えは「アライグマ」。最近あちこちで増えている外来種ですが、鋭い爪のような指が5本、真っ直ぐに伸びているので、一目見るとすぐ分かるそうです。

ちなみに歩いた(跳ねた?)あとは、こんな具合。


芭蕉の弟子たち

蕉門の句にも心惹かれるものが沢山あります。現代の俳句にはない味わいが、かえって新鮮に感じられたりします。昔の囲碁の棋譜と通じるものがあるかもしれません。それにしても「猪の首の強さよ…」は凄い句ですね。


            嵐雪

竹の子や児のはぐきのうつくしき

蒲団着て寝たる姿や東山

梅一輪一輪ほどの暖かさ

            其角

うつくしき顔かく雉子の距かな

声かれて猿の歯白し岑の月

かたつぶり酒の肴に這せけり

十五から酒を呑出てけふの月

            去来

鴨啼や弓矢を捨て十余年

盲より唖のかはゆき月見哉

月見せん伏見の城の捨郭

岩はなやこゝにもひとり月の客

のりながら馬草はませて月見哉

            凡兆

時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり

炭竃に手負の猪の倒れけり

ながながと川一筋や雪の原

あさ露や鬱金畠の秋の風

猪の首の強さよ年の暮

捨舟のうちそとこほる入江かな

俳句も少し

好きな俳句も少し掲載しました。あくまで「好きな句」です。

世に名句はたくさんあるのでしょうが、不勉強につき、あまり詳しくありません。

芭蕉の弟子の句にも好きなものがたくさんありますが、それはいずれまた。


            飯田蛇笏

父祖の地に闇のしづまる大晦日

古き世の火の色うごく野焼かな


            飯田龍太

かたつむり甲斐も信濃も雨の中


            成瀬櫻桃子

かたつむりたましひ星にもらひけり


            宇多喜代子

戦争も好きと一声かたつむり


            高浜虚子

富める家の光る瓦や柿若葉

爛々と昼の星見え菌生え

虚子一人銀河と共に西へ行く


            久保田万太郎

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな

春の夜のすこしもつれし話かな


            吉岡 実

春雨や人の言葉に嘘多き


            永田耕衣

人ごみに蝶の生まるる彼岸かな

皆行方不明の春に我は在り

恋猫の恋する猫で押し通す

母の死や枝の先まで梅の花


            奥坂まや

メロンパン体内少し朧なり

タンポポの絮吹いてをる車掌かな


            有馬朗人

唐紙を開けば月の真葛原

玲瓏の水を飲みけり冬の蛇


            桂 信子

どことなく痛みはじめし春の家

雪たのしわれにたてがみあればなお

たてよこに富士伸びてゐる夏野かな

傘さしてまつすぐ通るきのこ山


            三橋鷹女

白露や死んでゆく日も帯締めて


            夏目漱石

有る程の菊抛げ入れよ棺の中


            正岡子規

春風やまりを投げたき草の原

写真を何枚か

好きな写真を何枚かアップします。上から、雨のメキシコシティのベンチ、快晴のクスコの緑のベンチ、リオのコパカバーナ海岸、マラカナンスタジアム前のジーコ像、イグアスの滝です。


はじめまして

 今日は。生まれて初めてブログなるものを立ち上げました。まだ試運転で、何に使うか、まったく決めていません。少し考えてからポツリポツリ書いていこうと思います。よろしく。とりあえず、ごあいさつです。